江戸初期の寛永期(1624〜44)、後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川秀忠の娘)が当時の文化人、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、狩野探幽、狩野山楽などの交遊を通じて、華やかな寛永文化を開花させました。
雛祭りは、その中で、上巳の節供として催されるようになったと推測されます。それが公家や大名へ、そして庶民へと広がっていったと思われます。江戸期の五節供の行事が年々盛大に行われるようになったことから、それを彩る人形たちが主役となっていきました。中でも上巳の節供(3月3日)、端午の節供(5月5日)、七夕の節供(7月7日)の三節供は、いろいろな種類の人形を生み、日本の人形文化を大きく育んでいきました。