江戸時代の、まだ宮廷の節供としての「ひひな遊び」の頃は、天児(あまがつ)や這子(ほうこ)の流れを汲む「立雛」が中心でした。やがて紙製の立雛は、次郎左衛門の頭(かしら)にかわり、その美しさから、より高度なものとなって受け継がれていきました。また、「宮廷雛」も「立雛」から「坐雛」に移行していきました。
初期の頃は、天児の頭と同じようなスタイルで、練物の共冠(冠と頭を一緒に作ったもの)は外注とし、衣裳は女官たちの手作りであったと思われます。それが、次第に「室町雛」や「寛永雛」「元禄雛」と呼ばれる小振りなものを中心に、室町雛の型を受け継いだ「次郎左衛門雛」が市販化されていきました。また、オーダーメイドとして、朝廷の装束を受け持った高倉・山科両家が関与した「高倉雛」「山科雛」「稚児輪(ちごわ)雛」などの「有職雛」が生まれました。
一方、「町雛」は、「享保雛」から「古今雛」へと、形も写実的になっていきました。文化年間(1804〜18)の川柳に「祖母次郎左、母つっぱりに嫁古今」(つっぱりとは、享保雛の両袖を横にピンと張った姿をいう)というのがあり、雛の流行の移り変わりが読み取れます。